協力体として 園長 星野 健(2003年6月)
『成長させてくださったのは神です』。この言葉はすべての人に謙遜であることを求めます。人間は自分のなしていることが正しいと確信するとき、いつも足をすくわれやすくあります。自分のやり方がすべてのことを成し遂げることができるものであるかのように錯覚する傾向がわたしたちの中にいつも潜んでいるからです。
 聖書はその傾向性を「罪」という言葉で指さしています。誰もそれから逃れられる人はいないのです。それはブレーキの壊れている車のような状態です。動機が正しいとき、自分でも人から見ても、これが正しいこと良いことだと思うとき、わたしたちは勢いよくアクセルを踏みます。しかし、そのときいつも自分の車のブレーキが壊れていることに気づかないのです。速く走る力があるからといって、それだけで車の性能は測れません。力がある人、能力がある人、よく気のつく人、そして正しくあろうとする人ほどこの失敗の危険度は高くなるのです。そして事故の被害の度合いも高くなるのです。自分の見方・やり方・考え方を絶対視して人を傷つけ、はねのけ、自分自身も気づいたときにはみずみずしい心を失って、給油することさえできなくなるか、どこかに転落してしまうことになります。
 『成長させてくださったのは神です』。このように言える心をもって子どもたちに向き合うとき、自分の生き方や、自分の理想をおしつけ、人間を鋳型にはめ込んで育てるような無茶を犯すことから免れさせられます。子どもたち一人一人は、親でもなく教師でもなく杜会でもなく、神に育てられているという神秘を隠しもっているのです。親や教師や杜会ももちろん大切ですが、それで尽きていない。子どもたちの中にはもっと不思議な、わたしたちが把握しきることができない可能性が秘められているのです。そのことの前に謙遜になること、いつも子どもたちを助けてあげられるわけではないことを心低く認めて、子どもたちのために祈ってあげること。そういうまるで無力のようにみえるあり方が、子どもたちが本当に自分の足で歩いていく力になっていくという不思議な事実があるのです。
 このことを信じて実践していくには勇気が必要ですし、また目に見えないことを信じる心が求められます。本荘幼稚園ではそのことを教師自身が礼拝をささげることの中で繰り返し確認します。そのことを通して自分の役割は全てではなくて、部分であることを知らされ、協力体として子どもたちに向き合うことができるのです。課題は一人で担うとき重荷になり、共に担うとき喜びに変えられます。
↑上へ戻る